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紅 蓮

紅 蓮

別考察(1)

「歴史街道」1995年8月号(特集;明智光秀と石田三成にみる失敗の本質/母への手紙)


いつもの様にリスト下に書くには長すぎるので分けることにしました。(>_<)

人それぞれ考え方も違うし、光秀ないし光成の事を嫌ってようと酷く書こうと、それが事実にちゃんと基づいていたり、考えようによってはそういう見方に出来るだろうというなら許せるんだけど、事実無根の事を書いて酷評するのは許せません。(>△<)
今回、光秀のことを2人、光成のことを2人、両者のことを2人、あと山崎や関ヶ原の戦いについて書いてる人もいるのですが、その内ちょっとこれは!!と見逃せない文をあげてみました。


○会田雄次(京都大学名誉教授)寄稿文より

「いくら戦国時代でも無一物の浪人から大名までとり立ててくれた主人を闇討ちしては世論が許さない。山崎合戦がなくても彼の天下は短命だったろう。」

と書いてるんですが、世論は許してたんだ!!と言いたいです。
少なくとも本能寺の変後、京の民に対して免税を施したりしたせいもあるんだけど、京の人々は本能寺の変を歓迎したって話だし、光秀亡き後も光秀は毎年7月盆中に供養されていたという話。
っていうか、それを言うんだったらその後、
織田政権を乗っ取った秀吉は許されるっていうのかよ!!!(T_T)
大体世の中なんて世論を無視して作られるもんで、世論なんてその後くっついてくるものと過言じゃないかと。
今の日本だってどんなに世論が文句言おうと、じゃあ政権が即変わったり、法案が否決されるかって言ったらそんなことないしね・・・。
それに世論だどうのこうのいっておいて、矛盾してると思うのが、ちょっと長いですが、

「孫子は、軍をくつがえし将を倒す五危の一つに愛民を挙げている。とんでもない話のようだが、これも事に臨んで断ち切るべき情の一つなのだ。大衆というのは度し難いほど愚かで人を過誤に導くと共に一切責任をとらないし、何一つとして頼りにならぬ存在だ。そんな連中の人気とりに溺れているような心情では大事はなし難いというわけである。光秀も光成も、その旧領では愛民の今日まで語り伝えられているほど領民を愛護した人物だったが、最後は、あるいは農民に殺され、あるいは領民に裏切られている。」

これは言い得て妙だとも思いますが。
大衆というか、人ってのがいかに利己的で自分本位かって事ですよね。
こと戦国時代においてはこれが本当に顕著で武将も民衆もいかに自分を一族を守るか、その為にだったら長年使えた主君を裏切ることも落ち武者狩りもやって当然!で、そんな時代に姻戚だから、豊臣政権の恩顧をこうむっているんだからとか甘い事を考えて頼りにしてると孤立無援になって破滅して、対する秀吉・家康といえば実利報酬の根回しで成功したわけであり、人間情より実利、人間って本当に嫌な生き物だよなぁって、どんどん人間嫌いがエスカレートする自分が嫌になる・・・。(>_<)

なのになのか、だからなのか分からないけど、そういう甘い人間が好きなのも事実です。
情に溺れて大事を見失うような良く言えば実直さ、悪く言えば愚かさが好きらしくて、思えば歴史上の人物で私が心酔してる人に誰一人成功者がいないのってそのせいじゃないかと・・・。
愛民も三国志の劉備の「国は民をもって基とする」で感銘を受けて以来、
私には譲れない一点で、それがなかったら光秀にはまらなかったと思うし。

渡部昇一(上智大学教授)寄稿文より

「謀反の資格さえなし」

タイトルからしてコレ・・。そして、光秀を一言で言い表すなら、

「恩知らず」

だそうです。これは上に挙げた人も似たような事書いてたし、光秀批判の最たるものなんだけど、それこそ戦国時代をとりあげて何寝言言ってんだ!って感じですよ。
大は秀吉・家康、小はそれこそ数え上がられないほど、戦国時代なんて恩知らずの温床だっつーの!!!
むしろ信長の跡継ぎ決定のどさくさに紛れて政権乗っ取った秀吉や、秀吉死後におおっぴらに秀頼をないがしろにする態度をとって挑発しまくるような家康のやり方に比べたら、本人生存中に反旗を翻す方がよっぽど清々しくてスッキリする!!!

というのは、まあひいきも含む見方なのは重々承知なんで、まして秀吉や家康のやり方をとって、それぞ天下人たる器量や賢さと褒めるか、卑怯者のすることだと毛嫌いするかも人それぞれだと思いますー。

しかし、事実無根なことを根拠にあげられるのはやはり納得いかないもので、まず、
信長が越前の朝倉義景を攻略中、北近江の浅井長政が反旗を翻し、急遽撤退する必要に迫られた際、秀吉が殿(しんがり)を努めたことで秀吉は織田軍武将に「恩を売っていた」と、「恩知らず」な光秀と比較しているところがあるんですが、ここがまず嘘!!
この殿、確かにあまり知られてないけど、光秀も秀吉と共に殿を務めたのは文書に基づく事実。
それを後々時代の勝者である秀吉の見せ場として、
秀吉だけが活躍したように語られるようになっただけ。
次に、一番はぁっ?!と思ったのが、

「光秀には、いかにもエリートらしい生真面目さ、性急さが目につく。丹羽攻略のときには、人質に出した母を見殺しにして城を落とした話がある。」

いつ光秀が母親を見殺しにしたよ・・・。
光秀が母親を人質にしてながら城を力攻めしたというならまだしも、母親を人質に城主とその弟の降伏を促して、それを安土城に護送したら、助命嘆願もむなしく信長に兄弟は殺され、怒った城兵に母親は串刺しにされたっていう、ここは光秀に同情すべき話なのに、話を捏造するにも程があるーーっ!!!(>△<)
この話って結構有名なんだから、ちょっと光秀の本を読めば分かるものを、これを読んで誤解する人がいたらどうしてくれんだーーっ。キィ!!

余談で、もう一つの特集「母への手紙」で秀吉が母にあてた手紙が紹介されており、母親への優しさやいじらしさがにじみ出ているとか、べた褒めされてるんですが、その母親を家康に臣下の礼を取らせたいばかりに人質に差し出したのは誰だよ・・・。(-_-;)
優しいが聞いて呆れるとまで言わないけど、上記に書いたように光秀だって一説には養母とはいえ人質に出してるんだから、これもこの時代上やむを得ないこととはいえ、そういう都合の悪い事には触れもせず、ただ手紙だなんだでべた褒めする方がどうかなって思います。(=△=)

また大きく取り上げられていたのは秀吉や高杉晋作など4人なのですが、その後で更に4人ほど少しずつだけど触れられており、その中に政宗の手紙が。
秀吉の命令で朝鮮半島に渡ってから母親にあてて書いた手紙なんですが、ビックリ。
てっきり弟の小次郎を殺した件で、それからずっとこの親子は絶縁状態で居続けたんだと思ってたら、母の方でも政宗に手紙を出していたり、仲直りしてたってこと。
最近また大河ドラマを録めまくってるんですが、ちょっとこの先見る上でホッとしました~。

ちなみに正月明けから信長が第1話から再放送され始めたので、政宗のように録画し続けていくつもりが早くも4話を録画し忘れてガーーン!!
この頃まだ光秀出てきてないだろうことが救いだけど、気をつけないとっ。
あと太平記も始まったんですが、それは見ようかどうか迷いどころ。
鎌倉幕府を倒して、足利幕府が出来る過程で、主人公は真田広之なんですが、他のキャストが微妙~。


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